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特 集

戰艦「大和」

↑写真 戦艦「大和」の雄姿(吉田満著『軍艦大和』1949年刊・銀座出版社版より)

 


↑吉田満著『軍艦大和』1949年刊・銀座出版社版 装丁は向井潤吉画伯

 昭和20年(1945年)4月7日午後 九州西南沖海上で、大日本帝國海軍最後の大艦隊として出撃した戦艦「大和」以下の第二艦隊は、386機の米海軍機動部隊艦載機と交戦し、戦艦「大和」、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「M風」「磯風」「朝雲」「霞」が撃沈された。所謂、坊ノ岬沖海戦である。戦死約3,700名。沖縄を救う、特攻攻撃を援護するという目的を果たせぬまま、執拗な激しい攻撃に、史上最大の戦艦は最後の時を迎えたのであった。

 出撃の命令が下り、大和ガンルーム(士官次室)に必敗論が圧倒する中、死ぬ意味を語る先任士官が居た。
哨戒長臼淵大尉曰く「進歩の無いものは決して勝たない。負けて目覚めるのが最上の道だ。日本は進歩といふものを軽蔑してきた。わたくし的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。破れて目覚める。それ以外にどうして日本が救われるか。いま、目覚めずして、いつ救われるか。俺たちはその新生日本の魁となるのだ。新生日本にさきがけて散るのだ。それで良いじゃないか。」(この発言には諸説あるが、掲載した初版本に拠った)

 あれから69年。我々は真に目覚めたのか?
 4月7日は後世の人々が毎年、襟を正す日なのです。

 

↑「科学朝日」1947年12月号 占領下の日本で、大和の真相がようやく明らかにされた。
進駐軍に気を使い批判的、遠慮がちなタイトルだが、中身は戦艦「大和」への哀惜に満ち満ちた解説である。


↑掲載紙不詳。戦後すぐの新聞に発表された戦艦「大和」。有名なレイテ海戦時の写真。この時の爆撃はビクともしなかった。


↑↓坊ノ岬沖海戦に於ける軽巡洋艦「矢矧」(米海軍撮影)
勇戦敢闘も空しく撃沈寸前の流れ出る重油が血溜まりのような鬼気迫る写真である。

「大和」の護衛に出動した「矢矧」は魚雷7本、爆弾12発が命中し、
戦艦すら耐えきれない大損害を耐えに耐えて沈没した。
排水量で比較すると65,000dの戦艦「大和」に対し、「矢矧」は6,600dで10分の1の大きさである。

 


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